2024年1月22日月曜日

怪老人日乗:1月22日(月)

今日は朝から都心仕事へ。さすがの西武線も混んでおり、地球にはこんなに人がいるのかと怯える。南無阿弥陀仏。飯田橋に着いて編集作業すこし。そのまま出先で書き下ろし(企画A)。集中してやった割にはあまり量は書けず。しかし着実に進んでいるので気持ちがいい。前書きを書くまでに3年かかるってどういうことだ、と思うが思考が近視で乱視の私としては、ピントが合うまでにそれだけかかるということなのだろう。

池袋ジュンク堂に寄って恒例の新刊チェック。『アーサー・マッケン自伝』など気になるもの、必要なもの3冊買ったらそれだけで1万。他にもいくつか欲しいものあるが、まだ小遣いをもらったばかりである。いきなり金欠になるものイヤだったので先延ばし。これはいよいよnoteを始めるしかないかと思う。それと今年は動画もやっぱりやろかなあ、と思う。

復活した『映画秘宝』を読んでいたらネットにおける「映画語り」の時代にどう向き合うか、という小特集があって、その中で切通理作氏が、雑誌のレビューはしばらく経つと参照されなくなるが、ネットの記事はいつまでも現在形として残り続ける、ということを書いていて深くうなずいてしまった。

私は世代的に紙媒体とネット媒体のちょうど過渡期を生きてきたライターで、仕事量も紙が半分、ウェブが半分というバランスであるが、ここに指摘されているようなことは痛感していて、同じレビューでも紙にしか載らないものは(いかに数十万部売れているという週刊誌であっても)「点」や「面」ではあっても「線」ではないというのか、時間の経過を超えてまで読まれることは難しい。もちろん図書館などに行けば読めるのだが、そういう話ではなくて気楽に参照されうるかどうか、という話だ。

じゃあどうするのがいいのか。幸いわたしはウェブの連載をやっているので、そのあたりは恵まれている環境にあると思うが、媒体任せというのもなあという気がしないでもないので、自力でウェブに出せるものは出す。プロモーションの意味合いもあるが、やはりホラー小説の新刊情報や基本的な事柄が、カジュアルな場(検索してすぐ出てくるところ)に置かれていることの意味は大きいように思うのだ。

私がSNSを始めたのは、前にも何度か書いているが某ビジネス書の作家に取材した際に、「ツイッターやフェイスブックにいない人は、自分にとって存在しないも同じだ」と言われたからで、そんな阿呆なことがあってたまるかと内心思ったけれども、それまで避けてきたSNSを始める踏ん切りがついたのはその言葉のおかげなので、まあ感謝はしているのだ。

でツイッターを始めて5年、この間にネットをめぐる環境も変わったし、レビュー的な事柄のメインが少しずつ文字から動画の時代に移ってきているような気もするので、そっちにも少しずつ慣れていかねばいかん。もちろん合う合わないはあるのだろうが、まあやってみないことには分からない。というわけで色々新しいことを始めたい気分の1月なのだった。

帰宅したら古本届いている。今月だけで何冊本が増えたやら、考えたくもない。夜はさらに企画Aの続きと、なんとなく時評原稿の準備。お夕飯は鯖の焼いたので、角上魚類のお魚なので新鮮で旨い。多摩地区の人間はみんな大好き、角上魚類。

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