ひい疲れた。明け方から集中して原稿一本完成、その後歯医者を差し挟んだ後、文庫解説のゲラ戻し、請求書作りとあれこれやったらお昼までに息切れしてしまった。午後から取材一件。その後某社で編集作業して、さらにあちこちに不義理している原稿書き。ほええ。
前にも書いたかも知れないですが、私は根っからぐうたらな人間で、中学の時真面目ぶっていたら担任の先生に「でも、お前は結局怠け者だからな」と見抜かれたという(そんなこと言うか?)経験の持ち主なので、できるだけ忙しくは生きたくないのです。事実20代の頃なんて、午後まで寝ていて、寝ぼけた顔でバイトに行って、バイト帰りにレンタルビデオ屋でホラー映画や心霊ビデオを借りて、ご飯食べながら観賞して、という楽しい暮らしを送っていたわけです。
今の仕事は明らかにその延長線上にあって、怪奇幻想ライターとして出版業界の片隅にポジションをもらえているのはありがたいことなのですが、うーむ、怠けたくて就職しなかったのに結局全然自由時間のない生活に陥ってしまった。ということを嘆いてもしょうがないので、勤勉にブログでも書いてみるか。
扠。
『宿で死ぬ』ができるまでの続き。西荻窪のそれいゆで山岡士郎も絶賛する方法で淹れられたコーヒーを飲んだ、というのが前回までのお話。そこに海原雄三がやってきて、「士郎、お前にコーヒーの何が分かる」と言ったら物語の始まりですが、そんなことは起こらず、ちくま文庫の担当Iさんは一枚ずつ企画書を読んでくれました。
で前の晩に企画書を作りながら、本命はこれかな、と思っていたのが「宿ホラー」の企画だったんですね。他にも色んな怪奇的シチュエーション(ツイッターで皆さんがあれこれ挙げてくださっているもののような)のアンソロジー案があったんですが、やはり「家」に対応するのは「宿」だろうと。
同じことは担当のIさんも感じてくれたようで、「宿ホラー」の企画書をテーブルに出した瞬間、目がキラリと光りまして(ような気がしました)「どれも読みたいですけど、やっぱり〝宿〟じゃないですか」とのお言葉。いくら自分がいいと思っても、世間的に見たらまるでピント外れ、ということは往々にしてあるわけで、私なんかはそういうケースが非常に多いのですが(センスが悪いということかしらん)今回に関してはうまくピントが合ったようです。
ところで「家」と「宿」、すなわち住まうことと旅することとホラーの関わりについては、『日本怪奇小説傑作集』第3巻の「解説」において東雅夫氏が次のように書かれています。
「すでに本書第一巻の解説で詳しく御説明しましたとおり、本書の編纂にあたっては、あくまでも作品本位に、両編者が「これぞ定番」と信ずる傑作を選りすぐり、さらなる合議を経てふるいにかけられた収録作を、発表年代順に配列するという方針で挑みました。決して、右のような『家』とか『旅』といった特定のモチーフに沿って作品を蒐めたり、まとめて並べたりしているわけではないのです。
にもかかわらず、結果的にこの第三巻が、期せずして『家』と『旅』をめぐる物語集の様相を呈するにいたったということは、そこに何らかの底流を認めざるをえないのではないでしょうか。
私はそれを『ホラー・ジャパネスク』の源流と呼びたいと思います」
紀田順一郎氏とともに『日本怪奇小説傑作集』全3巻の編纂にあたった東氏は、戦後の怪奇小説に「家」と「旅」というモチーフが頻出することに驚き、それを「ホラー・ジャパネスクの源流」と名づけたのでした。
『宿で死ぬ』の企画を立てた際、この東氏の言葉を意識していたわけではありませんが、現代日本のホラーの傑作を精選収録したアンソロジーを作ろうとした結果、おのずと「家」と「宿」というホラー・ジャパネスクの2大テーマが浮かんできた。ホラーというジャンルを考えるにあたって、これはなかなかに示唆に富んだ出来事のように思われます。
なお昨年「ダ・ヴィンチ」で対談をさせていただいた『事故物件怪談 恐い間取り』の著者・松原タニシさんも、ライフワークの事故物件ものと並行して『異界探訪記 恐い旅』『死る旅』と旅と怪異にまつわるを本を意欲的に書かれています。これまた面白い符合でありましょう。
(この項もうすこし続く)
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