2024年11月1日金曜日

怪老人日乗:11月1日(金)

大学の同期には直木賞作家の澤田瞳子氏がいたようである。前々から出身大学が同じであることは存じ上げていたが、今日たまたま氏のWikipediaを見ていると年も同じだし、学部も一緒なので(同じ文学部だが学科は違う)、かなり近いところにいらしたのではないかと思う。氏が参加していたという能楽部には知人も入っていたし、キャンパス内でもすれ違っていたことであろう。

なんでこのようなことを思ったのかといえば、某誌のエッセイをうんうんうなりながら執筆しているからで、その少し前の号に澤田氏が執筆されているのであった。その流れで氏が同学年であることを知り、あらためて大学時代のことをちょっと思い出したりもしたわけなのである。

大学時代というのはまあ、あまりエンジョイできなかった中途半端な時期であったなあという気もするが、しかし私の人生はいつもそんな感じで周回遅れなので、別段後悔はない。あえていうならもっと本を読んでおけばよかったとか、あちこち行っておけばよかったとか、軽薄に青春を炸裂させておくんだったとか、そのくらいの感じであって、それにしても日々ボンヤリしている私のことだから、何があっても記憶は薄れて今日には曖昧になっていることであろう。

しかしまあ大学図書館の雰囲気というのは、今思い出してもなかなかに妙なるもので、結構夜まで残って本を読んだりしていたけど、まわりがどんどん暗くなっていき、静かになっていったところで、一人閉架書庫で古い本など読んでいると、活字が骨身に染みこんでくるようで、柄にもなく良い気持ちになったりしたものだった。大学教育が私に何を残したかといえば甚だ心許なく、研究者にもならず就職もせずで、学費を払ってくれた両親には申し訳のないことであるが、ああいう体験ができたのは良かったと思う。

ところで私は進学先を京都に選んだけれども、これは大した理由があったわけではなくて、あえていうなら東京に行きたくなかったのである。私の生まれ育った函館市はあんまり進学先がなくて、地元の大学(教育大学か私立大)に行かない場合、大都市の札幌か東京に行く人が多く、でクラスの多くが東京に行くので、「このまま自分も上京したら高校時代の人間関係をそのまま引きずることになってイヤだなあ」と暗いことを考え、京都に行くことにしたのです。

その結果、わたしは東京の出版界に入るのに人より10年ほど遅れたし、もっと早くライターとして活動を始めていたら、と思わないでもないが、しかし人に振り回されやすい時期に東京にいたら方向性を見失っていた可能性も大であるので、京都に行ってやはり正解だったと思う。なにより泉鏡花の泰斗である田中励儀先生に会えたのは僥倖で、浮世離れした京都で怪奇幻想文学をだらだらと読んでいたことが今に繋がっているので、まあよかったんではないでしょうか。しかし東京に行っていたらちゃんと就職していたのかもしれず、人類のためにはその方がよかったのかもしれない。

そんなことを考えながら10月31日〆切の原稿をせっせとやっている男、その名はハリー・ポッター。南無阿弥陀仏と唱えながら、卒塔婆の森を掻き分け掻き分け、宇宙人のミイラを探しながら、海底探査機のコックピットに重油を撒く。そんな男の編んだアンソロジーが11月27日に出る。児童書だが大人が読むのも大歓迎だ。ハリーは寂しいとき、塔の中で毛糸のマフラーを編むという。そのマフラーを辿っていくと、地獄に通じているのだという。(昭和12年5月1日付「朝日新聞」より)





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