2024年10月15日火曜日

怪老人日乗:10月15日(火)

うーむ、唐沢俊一氏関連のいろいろなX投稿、そこに貼られた各関係者によるnoteなどを巡回し、なんとも重い気持ちになってしまった。唐沢俊一氏については以前もこのブログで触れたことがある気がするが、反面教師として「ああなっちゃいけない、気を抜いたらああなる」という気持ちをもってずっとウォッチしていた人で、なかなか辛かったらしい晩年の様子がこの数日明らかになったことで、いっそう苦い気分になっている。

しかし唐沢氏の晩年については、唐沢氏個人の問題(さぼり癖からくる不義理とか、虚名を追い求め地道な作業の積み重ねを怠ったこととか、出版から演劇へとシフトしたこととか、あと女性関係とか)ももちろんあるにしても、フリーの物書きの老後という誰にとってもあてはまる問題でもあり、そういう意味でも他人事ではないおそろしさがある。

町山智浩氏と水道橋博士氏がYouTubeで唐沢俊一関連の対談をあげていたが、その第3回で町山氏がかつて雑誌文化が花盛りで、そのカルチャースターは植草甚一、草森紳一のような雑文書きだった。唐沢俊一はそんなライフスタイルに憧れて業界に入った世代、と分析していて、それは唐沢俊一氏という人物を理解するうえで重要な指摘だと思う。前にもこのブログで触れた気がする『裏モノ日記』を読むと、それはもう楽しそうに雑文書きのライフスタイルを満喫しているかつての唐沢氏の姿が伝わってくる。あの頃の唐沢氏は、間違いなくなりたい自分になった、夢を叶えた人だった(町山氏によると年収もかなりあったらしい)。

ただ町山氏がいうようにイメージ先行で業界に入ったがために、これが専門と言えるものがなかった。いや、なかったわけではない。貸本漫画にしても、古本にしても、超常現象にしても、人よりちょっとは詳しかったのだから、それを突き詰めればよかったのだろうが、専門家になることを選ばず、何でも屋であり続けようとした。雑文家としてはそれが正解なのだ。そもそもコラムニストとというのは、専門家的な重さから自由にある仕事であったから。むしろ偽の知識人であるところに、雑文書きとしての矜持のようなものもあったかもしれない。

しかし辛いことにネットが普及し、「何でも知ってる浅く広くの知識人」が必要とされなくなって、唐沢氏のような物書きの居場所もなくなった。そんな時代の変化を察して新しい居場所を見つけられたら良かったのだが、残念ながら出版界から転進した小劇場の世界はそうはならなかったようだ(楽しかっただろうが成功は収められなかった)。

やはりこれは唐沢氏本人の問題であると同時に、業界の大きな流れの話でもあるのだろう。私が唐沢俊一氏の本をほとんど処分してしまったにもかかわらず、『裏モノ日記』だけは手元に置いているのは、出版業界華やかなりしころの消息を伝える、いわば夏時間の記念のアルバムのような本だからで、今読むと喪失感にほろ苦い気持ちになる。ここには今では失われてしまった雑誌文化、サブカルの世界が保存されている。

唐沢氏の問題、というか不運はいろいろあって、もちろん不義理と怠惰で仕事が減っていったことも問題だけれど、「60歳を越えたライターに仕事を頼む人なんかいない」という町山氏の発言もおそらくそのとおりで、40代から50代と段々細くなっていった道が、還暦迎えたあたりでいきなり崖になっている、という図は今40代の自分にも容易に想像できる。皆それが分かっていながら、なんとかなるだろうと思って対策を取らないのだが、おそらくどうにもならないのだ。物書きであるにもかかわらずパソコンも持たず、あれだけコレクションしていた書籍も手放してしまった、唐沢氏の孤独な死はその事実を多くのフリーランスに突きつけてくる。だったらどうすればいいのか、というのはめいめいが真剣に考えないといけない問題で、資産があるわけでもない、会社組織に属しているわけでもない人間は、それこそ資格を取るとか、就職するとか、支出を抑えるとか、なんとか老後を生き抜くすべを見つけないといけないのだ。

唐沢氏は独身だったし、あるいは日雇いのアルバイトなどをして生き延びる、という道もあったはずだが、現実的にはかなり難しかっただろう(ただプライドの高い氏が借金を踏み倒すという昔ながらの小悪党のようなことまでしていたのは、正直ちょっと意外だった。そこまで追い込まれていたのか)。昔なら大学の先生とか、専門学校の講師とか、そういう道もあったのかもしれないが、少子化と不景気でそれも望み薄である。やはり専門性を高めて、面倒なことから逃げずにコツコツと仕事を積み重ねるのと、並行して別の稼ぎ口をあれこれ模索する、というこの二つに向き合い続けるよりないようだ。町山氏がX上で「アメリカは年金が45万円、夫婦だと倍額出る」ということを書いていて、それだけありゃセミリタイアも可能だよなあと思う。日本でもその半額でも年金が出ていたら(しかも60歳から)唐沢氏もあそこまで困窮し、あちこちに憎悪を振りまくこともなかったのではないか、とも思ったりもする。

私は雑誌文化の終わりの終わりにぎりぎり間に合った世代で(それでも華やかな思いというのを一切していない。書評家でいわゆる「雑文家」ではないからだろう)、それが今では仕事の多くはウェブ絡みになりつつあるけれども、今後どうなるかまったく予断を許さない。出版業界全体が沈んでしまうと――それはほぼ確実のようだが――雑誌もウェブもなくなるだろうし、単行本も新書も同じく駄目だろう。どうもこうもない暗い内容になってしまったが、唐沢俊一氏について考えるとみんな我が身を顧みたり、自分の深いところを覗き込むことになるので、そういう意味ではすごく大きな存在、ユング的にいうと「影」のような人だったのだなと思う。まあ唐沢俊一を知らない人にはどうでもよい話だろうが、諒とせられたい。

そうそう、ふと思い出したことがある。私はごく短い時期、唐沢俊一氏の担当編集者だったことがあるのだ。といっても雑誌『幽』の編集を手伝っていた時期だから本当に一瞬で、しかも『幽』は年二回の刊行、唐沢氏からの原稿を受け取って入稿したのも、おそらく一回か二回だったと思う。同誌の連載「漫画についての怪談」で、メーラーを探ればおそらく唐沢氏とやり取りしたメールが残っているはずだ。当時はすでに例の盗作問題などが発覚した後で、一時に比べるとかなり連載は減っていたはずが、それでもまだ完全に過去の人という感じでもなくて、まったくトラブルもなく記事にしたような記憶がある。




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