2014年2月21日金曜日

【新刊書評】 稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』




稲生平太郎は三つの名前をもつ男である。


ひとつめは英文学者として『異形のテクスト』などの著作がある横山茂雄。
二つめはJ・G・バラードの『残酷行為展覧会』の訳者として知られる法水金太郎。
そしてもう三つめが奇怪で哀切な青春小説『アクアリウムの夜』や、ナチ・オカルト論の決定版『聖別された肉体』などで、わが国のオカルティズム愛好家たちを畏怖させてきた魔道の学匠・稲生平太郎である。


著者がどういう事情でこれら三つの名義を使い分けているのか、その舞台裏はしらない。しらなくてもさほど問題はない、ともいえる。というのも、本名の横山名義にせよ、筆名の法水・稲生名義にせよ、資料博捜に裏づけられた圧倒的知識と、その隙間からどろりと滲みだしてくる一種不穏な感覚とは、どの名義においても共通しているからだ。さしあたって読者は、これら一騎当千の書き手が同一人物の変名であることを知っておけば十分であろう。

さて。

本書『定本 何かが空を飛んでいる』は、稲生平太郎がUFOについて論じたエッセイ集である。1992年に新人物往来社より刊行されて以来、長らく入手困難な時期がつづいていたが、このほど単行本未収録の評論(書き下ろし含む)をつけ加えた「定本」版として20余年ぶりに復活を遂げることになった。





UFOを異星人の乗り物であるとする説を、ユーフォロジーの分野においては「地球外生物仮説」と呼ぶ。言うまでもなくUFOとは「Unidentified Flyng Object」(未確認飛行物体)の略称であり、正体が分からないからこそ、それはUFOと呼ばれるに値するはずなのだが、今日ではSF映画等の影響で、この地球外生物仮説とUFOとがほぼ反射的に結びつけられている。空を飛んでいるのはアダムスキー型の円盤で、中に乗っているのは銀色の肌をしたエイリアンというわけだ。


著者はそうしたキャンプなUFO像を痛いほど理解したうえで(UFOを扱うことに対する複雑な感情は、本書第一章「私は前科者である」に詳しい)、UFOを地球外生物仮説から解放しようと試みている。アダムスキーも銀色のエイリアンもひとまず忘れてしまおう、それが本書の基本的なスタンスである。種々の目撃例に従うなら、どうやら地球の空を「何か」が飛んでいることは確からしい。その何かを、地球外生物仮説というフィルターなしに眺めてみよう、という本書のスタンスは、UFO論のあり方としてごくまっとうなものだ。

さてさて。

その結果見えてきたのは、地球外生物仮説などどこかへ吹き飛んでしまうくらい、クレイジーで奇っ怪な光景であった。UFOの存在する領域は、正気よりも狂気、秩序よりも混沌が支配する「神々のディズニーランド」(ジョン・A・キール)なのであり、本書はそうしたUFOの狂気の実例をたっぷりと紹介してくれる。


たとえば。
こんなエピソードがある。
1961年、アメリカのウィスコンシン州。
ジョー・シモントンという当時60歳の男性が、ある日朝食を食べていると、銀色に輝く円盤が庭先に着陸してきた。その中から身長1・5メートルほどの搭乗員が降りてきて、シモントンに三切れのパンケーキを与えてくれたのだという。小人たちはジェスチャーで水を要求すると、再び円盤に乗って去っていった。
シモントンの通報によって研究者が駆けつけ、さっそく証拠のパンケーキを分析にかけてみると、ケーキはごくありきたりの食材で作られており、一切食塩が使われていないということだけが判った……。


あるいは。
こんなエピソードもある。
1976年、アメリカのメイン州。
医師ハーバート・ホプキンズのもとに、黒いスーツの見知らぬ男が訪ねてきた。帽子もネクタイも靴もすべてが黒ずくめで、スーツには皺ひとつない。男の頭部はつるつるに剃りあげられていて、眉毛もまつげも生えていなかった。唇のあたりだけが濡れたように赤い。男は、口紅を塗っていたのである。
男はホプキンズにUFO事件から手を引くよう警告を残し(ホプキンズは、催眠医としてあるUFO事件にかかわっていた)去っていった。


その数日後。
こんどはホプキンズの息子ジョンとその妻モーリーンのもとに、見知らぬ男女が訪ねてきた。どこか時代遅れの服装をした客たちは、ジョン夫妻に「どんなテレビを見るのか」「どんな本を読むのか」といった不可解な質問をしたかと思うと、男が女を愛撫してみせて「ちゃんと愛撫できているか?」とジョンに尋ねはじめた。さらに、モーリーンに向かって「あなたのからだはどんなふうなのか? 自分のヌード写真をもってるか?」と質問してきたのだという。
この奇怪なカップルは、数日前、父親のもとを訪れた黒スーツの男とはあきらかに別人だった。


食塩ぬきのパンケーキを分けてくれるエイリアン。頭を剃りあげたブラックメン(UFO体験者や研究者の周囲には、黒スーツで身をつつんだ男たちがしばしば出現する)。ヌード写真を要求する時代遅れのカップル。こうなるともう、UFOが異星人の乗り物であると素朴に信じることは難しい。本書はこうしたたちの悪いジョークのような遭遇ケースを多数紹介し、UFOがいかにわけのわからない(人間くさい一面、妙に非人間的な一面もある)奇現象であるかを示してくれる。


といっても。
UFO現象のカルトなエピソードを紹介するのが本書の主目的ではないことは、断っておかねばならないだろう。もちろん、そうした楽しみ方もできないわけではないが(UFO現象のいかがわしい側面に注目してきた大槻ケンヂ、山本弘が本書を愛読書にあげていたはずだ)、著者の目は混沌の20世紀を突きぬけて、19世紀から中世、古代へと遡行してゆく。


ウィスコンシン州のシモントンは、異星人とおぼしい小人に水を与え、パンケーキをもらった。これは今日の目からするといかにも奇妙なエピソードだが、ヨーロッパ古来の妖精伝承においては、なんら不思議はないともいえる。というのも、人間界と妖精界のあいだでは「ケーキと水」が交換される、と古くから言い伝えられているからだ。また、妖精は塩をまったく食べない、という伝承もあるという。つまり、シモントンのエピソードは、宇宙時代の常識から外れてはいるが、フェアリー・テールの常識にはぴたりと当てはまっているのだ。
これは一体どういうことなのだろう。シモントンが出逢ったのは、エイリアンではなく妖精だったのだろうか? シモントンの例に限らず、フランスの研究家ジャック・ヴァレによれば、UFO搭乗員と妖精との類似点は意外なほど多いようだ。


また、メイン州のホプキンズの前に現れた黒ずくめの男にしても、西欧キリスト教社会で信じられてきた邪悪な訪問者(悪魔はたいてい黒い服を着て現れる)の、現代版フォークロアと考えられなくもない。ブラックメンたちの不可解なふるまいは、異星人や政府のエージェントのしわざと考えるには、あまりにも狂気じみたところが多すぎる。


UFOそのものにしてもそうだ。
今日のUFOムーブメントの発端は、1947年のケネス・アーノルド事件だが、それ以前にも人類は光る「何か」を空に見つづけてきた。
第二次大戦中には謎の飛行物体「フー・ファイター」が連合軍のパイロットに恐れられたし、20世紀初頭にはイギリスで謎の飛行船が現れ、パニックをもたらしている(この時期、まだ飛行船は実用化されていないことに留意されたい)。12世紀に著された『ブリテン列王史』は空を飛ぶ光について記録しているし、聖書の『マタイ傳』にも空を移動する不思議な星について述べられている。わが国の文献にも、「光り物」という言葉で、UFOめいた存在は記録されてきた(以上の例はいずれも稲生による)。


つまり。

UFO現象自体は20世紀が生み出した神話ではあるのだが、その一方で、わたしたちはいつの時代も空に「何か」を目撃してきた。いたずら好きな小人や黒ずくめの男たちにも翻弄されてきた。これを単なる妄想・幻覚のたぐいと片づけてしまうのはたやすい。実体のないおとぎ話と笑うのは簡単である。

しかし。

UFOは出現時、軍のレーダーに記録されることもあるし、複数の人間が異なった場所で同じ物体を目撃することもある。小人やブラックメンにしても、物理的痕跡をのこして立ち去ってゆくことが、ままあるのだ。現実と幻想、実在と非在が溶け合うボーダーランド。どうやらUFOが飛んでいるのは、そんな奇妙な場所であるようなのだ。
著者はいう。
「精神と物質の裂け目を円盤は飛んでいるのであって、おそらく解答はどちらの側にも属さないだろう」
「世界はおそらく僕たちの思ってるようなものじゃない。そして、世界に裂け目があるかぎり、僕たちは見るのをやめない――何かが空を飛んでいるのを」


手に触れられるような形で飛んでいるのではなく、かといってまったくの幻でもないとしたら、UFOとは一体なんなのだろう。本書はUFOという一見キャンプな現象を通して、わたしたちのリアリティを根底から問い直している。現実とは何なのか。UFOを見なければ生きていけない、人間とは何なのか。その筆致はあくまでユーモラスで、UFOになじみのない読者にも広く開かれているが、その実、地球外生物仮説を説いた巷のUFO本などよりもはるかに不穏さを秘めている、ともいえるだろう。
そもそもUFOなんて興味がないよ、という人にこそ読んでもらいたい(幻想文学や宗教、オカルティズムに興味があればなおよい)目からうろこの画期的UFO論である。
巻末の参考文献目録もきわめて有益だ。




この「定本」には表題作にくわえて、西洋オカルティズム、アーサー・マッケン、ナチ・オカルト、柳田國男、平田篤胤などにかんする論考が収められている。共通するのはやはりリアリティを切り裂く「何か」へのまなざしだだろう。オカルト、文学、民俗学。これらの学問領域は著者にとって、ディレッタントの手慰みなどでは決してなく、この世の裂け目を覗きこもうとする手段に他ならないのだ。


「自序にも記したように、本書に収めた文章の執筆は、一九八〇年から今年にいたるまでの長い期間にまたがっている。一九八〇年といえばわたしはまだ二十代半ばだったので、それが事実上の出発点だといえるが、いっぽうで、わたしはそこから一歩も進まなかったようにも思える。ひとつのことに取り憑かれて、それを倦まずに語ってきたというのが、おそらく本当のところなのだろう。」(定本版「後記」)


本書を通読し終えたとき、わたしたちもまた「何か」に取り憑かれていたことを卒然と思い出すにちがいない。なぜなら、幻想小説やホラー、怪談実話もまた、UFO同様に、現実の裂け目、実在と非在のボーダーランドから生まれてくるものだからだ。そうして、30余年にもわたって「何か」について語り続けてきた稲生平太郎の孤独な軌跡に、畏敬の念を抱かずにはおれないだろう。



なお、稲生平太郎とホラー映画脚本家・高橋洋との映画対談集もすでにスタンバイ中と聞いている。いまひとりの取り憑かれた作家・高橋洋(『映画の魔』!)との共同作業が、はたしてどんな不穏さを醸成することになるのか。刮目して待ちたいと思う。








【おまけBGM】 
四人囃子『空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ』(1975)


 


国産プログレの名演にして、 国産円盤音楽の代表作。90年代末にROLLYと加藤ひさしもカバーしていましたね。そういやこの曲の円盤も、理不尽な要求をするのだなあ。


2 件のコメント:

  1. >>そもそもUFOなんて興味がないよ、という人にこそ読んでもらいたい

     おっしゃるとおりですね。「人間とは、あるはずのない何かが空を飛ぶを見るものである」という認識こそが、人間という存在を理解する鍵なのではないでしょうか。

     今回の定本版は著者のオカルト論考を集成していて読み応え満点なのですが、その反面、気軽に他人に薦めるには重厚すぎる感もありますね。私は元版の造本も含めたカジュアルさが好きでした。将来、どこかの版元が「何かが空を飛んでいる」だけを切り離して文庫化か電子書籍化してくれないかな、なんて思います。

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  2. >中島晶也さま
    コメントありがとうございます

    新人物版『何かが空を飛んでいる』といえば、とにかく見つけにくい本でしたね~
    90年代末、えらく苦労してやっと手に入れた覚えがあります
    巻末の参考文献リストに書影がついているのもポイント高かったですよね(定本版ではカットされたのが残念)

    近年はこういう超常現象関連の良書が少なくて、寂しいかぎりです

                            朝宮運河

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