2012年6月10日日曜日

追悼 レイ・ブラッドベリ


一昨日、世田谷文学館で「地上最大の手塚治虫展」を見物してきたのです。
『アドルフに告ぐ』『ブラックジャック』『バンパイヤ』『火の鳥』……と、きら星のごとき傑作群の原稿を間近に見ることができ、たいへんにオモシロカッタのですが、それは今日の本題ではないので省略いたします。


で、展示がトテモ良かったので、なんとはなしに会場を去りがたく、久しぶりに常設展示も覗いてゆくことにしました。『達磨峠の事件』(山田風太郎先生)の草稿ノート、『贅沢貧乏』(森茉莉大先生)の自筆原稿、大藪春彦のパスポートなんてものまであり、ほへえ、と眺めていたところ、スタッフの方が「からくり劇場の上演が始まりますわよ。ご覧になっては如何?オホホホホ」と仰るわけです。からくり劇場というのは、小ぶりの仏壇ぐらいの木箱にいろいろと複雑な仕掛けが施されており、光と音で文学作品の一場面を再現してくれる、という世田谷文学館の名物です。わたしはどちらでも良かったのですが、同行した妻女が是非観たいというので、まあチョコナンと座って観たわけです。


最初が漱石の「夢十夜」でした。次がなぜか宮沢和史の歌をテーマにしたもの。三つめが村上春樹の「眠らない女」。で、最後の上演がレイ・ブラッドベリの「万華鏡」でした。『刺青の男』に収録されている、ブラッドベリの珠玉SF短篇です。宇宙飛行士が地球に向かってひとり落下してゆくさまを、からくり人形は再現していました。


この日、ブラッドベリが91歳で亡くなったことは、朝のネット記事で知ってはいたのです。その時はさほどの感慨も抱かず、来るべきものが来たんだな、くらいの感覚で受けとめていたのですが、落下する宇宙飛行士人形と対峙しているうちに、さすがに粛然としてきました。ブラッドベリが亡くなった日に、「万華鏡」の上演を観ている。もちろん単なる偶然に過ぎないのですが、鈍感なわたしにもやっと「ブラッドベリが死んでしまった」ということが実感されてきて……このときばかりはちょっと淋しかったです。





わたしがブラッドベリに夢中になったきっかけは、他ならぬ「万華鏡」でした。ハヤカワ文庫の『刺青の男』を京都四条通のジュンク堂書店で買って、そのまま向かいのドトールコーヒーで読み、脳天が痺れるような感覚を味わったのをよく覚えています。一時はご多分にもれずブラッドベリばかり読んでいましたが、ホラーやブラックユーモア系の作品よりも、やっぱり「万華鏡」のような叙情的かつ感傷的で、しかもビジュアルイメージ炸裂の浪漫SFが好きでした。


我ながら幸運だったなと思うのは、「万華鏡」をほかの傑作集ではなく、『刺青の男』で読めたことです。『刺青の男』という短篇集はご存知のとおり枠物語になっていて、カーニバルの怪人の全身に彫られた刺青が、それぞれの短篇になっているという構成です。刺青男の来歴を物語る「プロローグ」がまずあり、軽めの第一作「草原」が置かれ、そしていよいよ「万華鏡」がくる。このプログレを思わせる構成美によって、「万華鏡」という作品の輝きは二倍にも三倍にもなっているようにわたしには感じられるのです。


ブラッドベリはもちろん短篇の名手でしたが、同時に「短篇集」を作ることの名手でもありました。短篇集をたんなる作品の寄せ集めではなく、ひとつの世界観をもったコンセプト・アートとして提示するという手法は、たとえば『血の本』のクライヴ・バーカーに、『閉じ箱』の竹本健治に、『異形博覧会』の井上雅彦に、『忌わしい匣』の牧野修に受け継がれています。ブラッドベリは去っても、ブラッドベリの血統はこれからも絶えることはないでしょう。

心よりご冥福をお祈りいたします。




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