さてさて。
ほぼ一年ぶりにブログにログインしました。
昔は宣伝ツールといったらこのブログだったのに。それというのもツイッターに軸足をすっかり移してしまったからで、栄枯盛衰、蛮社の獄、踊る平家ガニは美味しからず、なのであります。うん、このノリは久しぶりだな。やはりブログは落ち着くな。誰にも読まれていない感じが実にいい。
この1年間の間に、さらに2冊のアンソロジーを出しました。
2月には角川ホラー文庫約30年の遺産からベスト・オブ・角川ホラーともいえる作品を選りすぐった『再生 角川ホラー文庫ベストセレクション』(角川ホラー文庫)、そして今月14日には『家が呼ぶ 物件ホラー傑作選』の姉妹編ともいうべきホテル・旅館にまつわるホラーを集めたテーマアンソロジー『宿で死ぬ 旅泊ホラー傑作選』(ちくま文庫)を。
この2冊についても「ここだけのあとがき」的な文章を書いてみたいと思っているのですが、待てその前に『家が呼ぶ』の収録作解説が途中だったじゃないかと思い出し、いや、正確にはずっと覚えていたのですが、激動の平成期を生き抜いた人間として先延ばし癖が身についておりまして、ついつい時間が経ってしまいました。
というわけで今回は、『家が呼ぶ 物件ホラー傑作選』「ここだけのあとがき」その3をお送りいたします。まさか続きがあるなんて、自分でも思っていなかったよ。
皆川博子「U Bu Me」
家がテーマのアンソロジーを編むにあたり考えていたことがいくつかあります。そのひとつが「家そのものが禍々しい生命力をそなえているような作品」を入れる、ということ。これは私の嗜好にかかわっておりまして、ツイッターでも何度か書いたことがあるような気がしますが、私は「物が動く」「物が生きている」という話が恐怖のツボなんです。マッケンの『白魔』に薔薇の花が歌い始めたら私は気が狂うだろう……といった一節がありますが、あの気持ちがすごくよく分かる。それで入れたいと思っていたのが皆川博子さんのこの作品だったわけです。
この作品では染色作家の語り手が、郊外に建つ古家によって指を一本ずつ奪われていく。異様な事態です。さらに異様なのは語り手がそのことをごく当たり前に受け入れていることで、読んでいるうちに「信頼できない語り手」ものであることが明らかになってきます。このあたりは生者と死者、正気と狂気の混乱を描くおなじみの皆川ワールドですね。ラストの一文、「愛されるっていいのねえ」を呟く頃には、主人公はどんな姿になっているのやら。静かな恐怖と狂気。
日影丈吉「ひこばえ」
これも〝家そのものが怖い〟系のホラー。自分がどうしてこういう話に惹かれるんだろうと考えてもよく分からないのですが、たとえば巨大洗濯機が襲ってくるトビー・フーパーの『マングラー』のような世界は大好きなのです。そこには大事なポイントがあって、安易な擬人化は絶対ダメ。人間を超えた、まるで意思の疎通ができない〝他者〟であることが必須です。その点、「ひこばえ」に出てくる家は怖い。人間を呑みこみ、不幸にし、食ってしまうんですから。その意図も理由もまったく分からない。それが人里離れた土地ではなく、渋谷の町中に建っているというのがまた恐ろしい。
人間社会と相容れないものが、そこにある恐怖。ちなみにこの赤い館があるという渋谷の並木橋のあたりは、かつて出版社メディアファクトリーの社屋がありまして、仕事をしていた私は毎日のように通っていたのでした。幽霊が出るという噂のあるビルでしたけど、メディアファクトリーも今はありません。合掌。
小池真理子「夜顔」
哀切な怪談。そのくせちゃんと怖い。私がこの作品で好きなのは、主人公が惹かれる家の描写なんですよ。見事な紫陽花の咲く庭があり、古びたプラスチックの屋根があり、テラスにはロッキングチェアが置かれている。そこに住んでいる若い家族もどこかしらヒッピーの残党っぽいというか、自由業者に特有の雰囲気があるんですね。音楽や本や芝居が好きで、あれこれ経験した結果、この家での暮らし落ち着いたんだな、という感じがある。で一家は幸せそうですが、その幸せにはいまにも壊れてしまいそうな危うさがあります(すでに壊れていることが後に判明するわけですが)。もし彼らが経済的に安定したサラリーマン家庭だったら、こういう怪談は生まれなかったんじゃなかろうか、という気がするんですよね。
そのあたり私が自由業者だから、余計気になってしまうポイントなのだと思います。この小説の怖さは、生者と死者の〝シンクロ率〟みたいなものを描いているところでしょう。ふっと波長が合ってしまえば向こうに魅入られることがある。たとえばあなたの住んでいる街角にも、こういう家があるかもしれない。雨戸の閉ざされた空き家では、誰かがあなたに気づかれるのを待っているかもしれない。町に潜む魔邸、ということでは「ひこばえ」と共通点があるかもしれません。
京極夏彦「鬼棲」
京極夏彦さんの「談」シリーズの『鬼談』から。京極さんは常々自分に怪談は書けないと公言し、怪談専門誌『幽』にも怪談のようで怪談じゃない、伝統的な怪談を斜めからとらえたような野心的な短編を書き継いできました。これもそうした一編で、大正時代に建てられた洋館には開かずのドアがある。ドアの向こうに怖いものがあるわけではない。何もない。でもドアを開けてはいけない。何もないことが分かってしまうからだ……というメタ幽霊屋敷譚。京極さんの作品を読んでいると、頭の中に「そりゃ考えたことなかったわ。でも考えてみりゃそうだわ」という着想がレコードの溝のように脳に刻まれていく感じがありますが、これもまさにそうで、記憶と恐怖をめぐる叔母と主人公のディスカッションは、恐怖小説論としても傾聴に値すべきものでしょう。
京極夏彦さんの「談」シリーズの『鬼談』から。京極さんは常々自分に怪談は書けないと公言し、怪談専門誌『幽』にも怪談のようで怪談じゃない、伝統的な怪談を斜めからとらえたような野心的な短編を書き継いできました。これもそうした一編で、大正時代に建てられた洋館には開かずのドアがある。ドアの向こうに怖いものがあるわけではない。何もない。でもドアを開けてはいけない。何もないことが分かってしまうからだ……というメタ幽霊屋敷譚。京極さんの作品を読んでいると、頭の中に「そりゃ考えたことなかったわ。でも考えてみりゃそうだわ」という着想がレコードの溝のように脳に刻まれていく感じがありますが、これもまさにそうで、記憶と恐怖をめぐる叔母と主人公のディスカッションは、恐怖小説論としても傾聴に値すべきものでしょう。
この小説を読んでいて思い出すのは、パトリシア・ハイスミスの「ブラック・ハウス」という奇妙な怪奇短編です。町の男たちがかつて肝試しに出かけた幽霊屋敷、ブラック・ハウス。しかしその家で何があったのか、誰も語ろうとしない……という話。幽霊屋敷とは何ぞや、というテーマを扱うとここに行きつくのは必然なのかもしれません。幽霊なんていないよという話なのに、きっちり怖い作品になっているのはひとえに京極節のレトリックの力で、毎度のことながら不思議な手品を見せられているような気になりますね。
以上11編。『家が呼ぶ 物件ホラー傑作選』ここだけのあとがきでした。いやー久しぶりに書いた。肩の荷が下りたので、また折を見てブログの更新をしようと思います。んでは。
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