2014年9月30日火曜日

怪老人日乗・その8 「愛しの『ゴゴラ・ドドラ』」


引越しにともなって、書庫兼仕事部屋がちょっとだけ広くなった話は以前も書いた。
そのお陰で、これまで段ボールの底に埋もれていた本が、晴れて書棚に収まることになった、という王政復古状況についてもお知らせしたとおりである。


で。
これまで棚のあちこちに散らばっていて、ずーっと心苦しかった「日野日出志コーナー」を設置することができたので、お披露目しておこう。



(ちらっとだけ見えてるノベルスは『匣の中の失楽』)



  



日野日出志先生、ファンなんですよ。
死ぬまでに会ってみたい著名人、トップ5に入るほどファンなのである。ちなみにトップ1は美輪明宏先生だから、そのくらいのクラスの憧れの対象なのだと思っていただけると嬉しいです。


日野日出志といえば、グログロ怪奇漫画の第一人者のように世間では言われているが、その実「蔵六の奇病」「幻色の孤島」「水の中」「ゆん手」……といった珠玉の怪奇短篇の描き手でもありまして、ときにレイ・ブラッドベリ、ときにリチャード・マシスンを思わせるノスタルジックで残酷な作品世界は、大人の短篇小説ファンにも自信をもってお薦めできるものであります。


が。
そんな珠玉作を描くかたわらで、明らかに「……ああ、これはもう、先生、描き飛ばしましたね!」という作品群もあって、それはそれで珍重すべきものとなっている。とりわけ忘れがたいのが、おそらく漫画史上で初めて「四次元ミステリ」を謳った描き下ろし作品『ゴゴラ・ドドラ』(立風書房)だ。




天体望遠鏡で夜空を眺めていた春彦少年とフーコは、UFOのような眩い光に包まれる。
翌朝、フーコが目を覚ますと、家の外は密林と化していた。庭には突如、空飛ぶ円盤が落下し、そこからエンドウ豆みたいな顔をした宇宙人が出現。異星人は、「ゴゴラ・ドドラ」と謎めいた言葉を残して、かき消えてしまう。
そこから春彦とフーコの、宇宙の存亡をかけた異次元大冒険が始まるのであった……。


かの杉浦茂氏は、漫画の展開をあらかじめ考えることなく、いきなりペン入れしながら作品を作っていったという。
この『ゴゴラ・ドドラ』もどうやらそんな描かれ方をしたのではないか。とにかく、物語の主軸がぐらぐらしていて、どっちに進むのかまるで予想がつかないのだ。ホラーと思えばSF、SFかと思えばまたホラー。かと思ったらまたSF。ゾンビは出る。 幽霊船は出る。胎児みたいな怪物も出る。なんでもかんでも、これでもかというくらいに、壊れたパチンコ台のように出る。


「描いてるうちに、何か浮かぶだろう……多分!」という日野先生の開き直りのようなものがビンビンに伝わってきて、そのドライブ感がたまらない。暗闇でアクセルを思い切り踏みこんでいるような、他人の墓場をブルドーザーでめりめりと潰していくような……。そのやみくもなテンションには、感動すら覚えてしまう。
 

結果、『ゴゴラ・ドドラ』は残酷と幻想がパノラマのように延々と展開する、悪夢のホラー漫画となった。「蔵六の奇病」や「幻色の孤島」のようにオチがきいているわけでも、構成が決まっているわけでもない。しかし、これはこれで大いにアリ。見世物的な作品をつい好んでしまうわたしとしては、たまらない世界である。


江戸川乱歩の「通俗長編」にしても、えいやっと後先考えずに書いたものが、結果的に名作となったりすることは往々にしてあるので(『猟奇の果』は誰が何といっても傑作だ)、「書き飛ばす」ということは世間で言われているほど悪いものではなくて、むしろ立派なひとつの方法ではないのか、と思ったりする秋の宵なのである。


「四次元ミステリ」史上(ってこれしかないけど)に燦然と輝く名作、『ゴゴラ・ドドラ』。
これを復刊しないのはもったいない。青林堂のオンデマンド出版では購入できるようだが、この狂った世界は、21世紀にこそ広く読まれるべきものだろう。


愛しの『ゴゴラ・ドドラ』よ、よみがえれ!
そしてわたしは日野日出志先生に会いたい!会いたいよう!!



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